社会の構造自体に問題があるのに、それを個人の問題にすりかえて失敗者を攻撃できる自己責任論が、近年日本で急増しています。
これでは、他人を叩いて気持ちよくなれても、問題の根本はまったく解決しません。
自己責任論が急速に拡大してきた社会的背景と、自己責任論の問題点を解説します。
自己責任論は「次世代の根性論」
忍耐を尊ぶ国民性をもつ日本人と「根性論」は相性が良く、「気合いと根性で努力を続ければ何でもできる!」という根性論が国民の間で長らく受け継がれてきました。
頑張れば頑張るだけ成果につながった戦後からバブル経済期までは根性論が正義であったものの、バブル崩壊から現代にかけては経済成長が低迷しており、若者が努力と根性を否定するようになってきました。
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世代交代が起こっても、日本人の根本的な気質はあまり変わらないので、過去の根性論が形を変えたのが現在の「自己責任論」です。
- 根性論:できないのはお前の努力が足りないからだ!
- 自己責任論:そうなったのもお前の努力や事前準備が足りないからだ!
根性論も、自己責任論も、ただパッケージが違うだけで、中身はほとんど同じです。
また、「改善と省エネによる工夫ではなく、力押しの根性論が好まれてきたこと」からもうかがえるように、日本人は問題の原因をシステム面から分析する能力に欠けるため、「(どうしてそうなったのかは分からないけれど)とにかく努力が足りないお前個人の問題!」と、問題の本質と向き合うことをうやむやにできる自己責任論は、日本人にとって都合が良いと考えられます。
格差社会化が顕著となってきて、非正規雇用枠も増大してきており、日本人全体にお金と心の余裕が無くなってきている。かといって、海外のように集団デモや革命運動をするような国民性でもない。ならばどうすれば鬱憤が晴れるのか?
溜まった鬱憤を晴らすために、自己責任論を振りかざして「お前が悪いんだろ!自己責任だ!」というための叩きの手段として自己責任論が好まれている事も、現代日本で自己責任論が増えてきたことの原因です。
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自己責任論の増加現象と問題点が伝わるネットのコメント
日本特有の「異常な努力信仰」に根ざしているからだと思う。
努力が大事!!!→失敗した人は努力が足りない、自己責任だ!!!みたいな思考の流れ。
何か大きな社会問題が発生しても、政府も国民も全然動かず、
それどころか問題提起した人を叩きまくって、国に問題があること自体を認めようとせずに「その人達の自己責任だ!」で封殺しようとする。
心がとげとげしくなってきている。
その心の状態が「自己責任!お前が悪い!!」と他者と助け合おうとせず、冷たく突き放す言動に表れている。
できない理由はすべて「努力不足!」「自己責任!」で相手に全ての原因を押しつけられる、魔法のような言葉。
個人個人の事情差とか社会の構造は一切考える必要が無い。
そりゃあ、思考停止した馬鹿達に好んで使われるよね。
自己責任!って政府が言うってことは、政府が自分は不要って言っていることと同じなんだよ。
個人の落ち度が原因のものもあるけれど、
それ以外の、社会問題まで自己責任で片付けられたら、政府が何も仕事をしていないってことじゃん。
自己責任論のまん延のきっかけは、小泉構造改革が始まり
新自由主義の特徴は
- 「新自由主義」は政府による企業活動への規制・介入を避け、規制緩和をし、そのことで企業活動の促進と企業規模の増大を目標とする
- 国営企業を民営化したり、緊縮財政をしたり、企業でのリストラをさせることで新自由主義的政策は達成されていく
- 新自由主義は、景気を停滞させる原因の「保護」と「規制」を打ち壊す効果があるが、それは同時に格差社会化を促進し、大量の失業者を生み出すことを引き起こす
政府が市場に介入して金持ちに過度な税制を課したり、社会福祉を充実させて社会の弱者を保護しようとすると、結果的に企業の成長が停滞することが判明したので、そのことを受けて20世紀に入ってから誕生したのが「新自由主義」です。
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新自由主義は「徹底した競争主義」を第一にすることで、企業同士を競い合わせ、それによって国家自体の国際競争力の向上を最終目標にしています。
2001年から2006年までの小泉内閣によって、新自由主義的な政策である「小泉構造改革」が行われ、規制緩和が進み、派遣・契約社員のような非正規雇用者が増大することになりました。
小泉構造改革によって推進された「競争主義」が企業間のみならず国民間にも浸透した結果、「競争に負けた人はその人が弱かったり、努力不足だから!」と敗者を責める考え方が支配的となり、それが現在の自己責任論の台頭につながっていると考えられます。
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コメント
そもそも「権利」という概念は自己責任ときわめて「相性がよい」というのもあるんでしょうね。
「権利」というのは「ある行為の主体がその行為をなそうとする際に他者から制約を受けない範囲」のことですから、それを行使する者の力量に応じて拡大したり縮小したりする物です。ですから権利が保障されたからといって、結局のところそれを行使する者の努力無しには維持し得ない物でもあります。「権利を守るには常に闘わなくてはならない」というのはそうした「権利」の構造に由来する本質的な宿命であるともいえます。
「権利」のあるところに「自己責任」ありというのはある意味当然の理論的帰結なのだともいえます。